エピソード1

 この行事が実施されることになったのには、あるおでん屋での客とのやり取りがあったからと言われる。高松市役所の近くに美味しいおでんを食べさせてくれる飲み屋「つたや」がその舞台である。当時、市役所に勤務の林さん(後に高松第一高等学校校長、協会特別顧問)が酒席の場で瀬戸内海から太平洋まで歩く行事の構想を酒に酔った勢いで滔々と述べ立てていた。この構想を大言壮語と受け止めた客のひとりから「そんなことできるはずがないだろう。やれるものならやってみろ。」という言葉に、敏感に反応した結果「やってやる。」という言葉が出たらしい。このやり取りは有名になり、後に引けなくなったという人もいたが、結局は行政や何人かの有志の賛同や協力を得て実現してしまった。「歩いて瀬戸内海の水を太平洋に注ぐ」という無謀とも受け止められかねない行為に「ロマン」を感じた人が少なからずいたということであろう。

エピソード2

 道(ルート)探しには苦労したと聞く。当時、コースの下見には20歳代の男女6人が担当した。みんな仕事を持っているので、休日に何人かに割り振って、鉄道や自動車を利用してルート探しに専念した。このルートでは、三カ所道を探すのに苦労したと聞いている。中ノ川越え、黒滝(桑ノ川)から上倉に出る道、番所から土佐神社の上部に出る道を探す際には大層難儀したと聞く。この三カ所は地元の人に聞いても、最近使われていないということで、よくわからなかった。そのため、地形図を頼りに探すことになった。中ノ川越えは、当初北から伊勢川沿いに探したがわからない。それで反対側の中ノ川から探して初めてルートが解明した。この中ノ川越えは、後年、担当者の交替や伊勢川上流部の分譲地開発などで道が錯綜し、何回か道迷いを経験したと聞く。黒滝から上倉に出る道は荒れ果て、事前に目印をつけてやっと歩くことができた。その目印も黒滝を早朝6時出発のため周辺はまだ暗く、ヘッドライトで探すのだが容易に見つからなかった。土佐神社の上部にでる道は、もともとなかったので、新たにルートとして切り開いたらしい。この辺りも後年住宅地として開発され、何年か毎にルートを変更しなければならなかった。この苦労も第一回目の行事を成し遂げたことで吹き飛んだと聞いている。

エピソード3

    宿泊地と食事については、さほど苦労しなかった。もちろん事前の調査・交渉は行ったが、ルート上の行政、地元住民は非常に協力的だった。上猿田集会所での昼食休憩、冬の瀬にある本山町白髪山ふれあいの村休養センターでの一泊二食については問題なく対処できた。ただ、冬の瀬の宿泊場所は旧校舎の教室で石油ストーブが1台置かれているだけで、寝袋では寒すぎた。参加者は最初のうちは寝袋だけで寒さをしのいでいたが、そのうち有料で布団類を借りるようになった。黒滝では当初は小学校の講堂、給食場を宿泊場所とし、食事は地元住民の協力で賄うことができた。そののち、校舎を解体した後に南国市が「黒滝自然観・せいらん」を開設したので、お風呂の恩恵も受けられ、快適な一夜をすごすことができるようになった。このように、食事に関しても何ら問題がないように思えるが、実は一つだけ問題があった。酒類の確保である。初めのうちは、二つの宿泊場所近くには酒類も販売する雑貨屋があったが、冬の瀬はいつしか廃業となり、黒滝も経営者の方がなくなり、廃業となった。お酒が好きな参加者は自前で持ち込んでいるが、いかんせん、量が少ない。そのうち仕方なく、車で移動する荷物運搬担当者が事前に相当量の酒類を購入し、参加者の要望に応えるようになっていった。